[PR]テレビ番組表
今夜の番組チェック

第六話 終幕への加速
-invisible finale-

1.

 お風呂から上がった凛ちゃんは台所へ行き、コップ二つになみなみと麦茶を注いで、居間へ戻った。 部屋の中ではお母さんが昼間に借りてきた映画のDVDを観る準備を整え、ソファに腰掛けていた。
「ほら、凛。はやくはやく。」
凛ちゃんの姿をとらえたお母さんは急き立てて、リモコンの再生ボタンを押した。 大人びた凛ちゃんとは反対に、お母さんは子供っぽいところがあり、 娘と一緒に映画を観ることが楽しみでしょうがないといったところだった。 凛ちゃんも隣にこしかけ、麦茶をテーブルにおく。 テレビのスクリーンには透き通るような青空と、眩しいほどの緑の草原が映し出された。
「4月はまだ冷えるわね。風呂上がりに風邪ひかないようにしなさいよ。」
お母さんは一口麦茶を飲みながら言った。
「ちゃんとしてれば、風邪なんてひかない。」
凛ちゃんは首にかけていたタオルを弄びながら応えた。
「まったく、いつのまにか一丁前なこと言うようになって。だけどまぁ、 見た目も性格も昔と大して変わらないけど、もう大学生だものね。」
お母さんは昔を思い出したような声で言う。
「そういえば、お父さんの言ってた水奈月遥歩って子には、もう会ったの?」
「うん」と、凛ちゃんは興味がなさそうに応える。
「どんな子だった?」
「どんなっていっても。普通の女。」
「友達になれそう?」
「友達なんて……別に、そんな理由で会った訳じゃない。 水奈月遥歩が河上圭一とつながりがあるってお父さんが言ったから、 仕方なく会っただけ。」
「またそういうことをいう。どうして素直に友達になりたいとか言えないのかしら、この子は。」
お母さんは困ったような、呆れたような声で言った。
「他人なんて、信じられない。」
凛ちゃんはタオルを丸めて、両手でぎゅっと握りしめる。
「でもまあ、せっかく付き合う理由があるんだし、友達になるよう努めてみたら?」
「距離を置かれないようには努力する。もっとも、単純そうな女だったから、別に苦労はしなそうだけど。」
お母さんは今度こそ呆れて、はあっとため息をついた。
「まったく、友達がお母さんしかいないこなんて、この子の他にいるのかしら。」
「お母さんは友達じゃない。お母さんはお母さん。」
「あーはいはい。そうですか。」
それっきり、お母さんは何も言わずに映画に没頭した。 もっとも、没頭し過ぎたせいで、言葉が続かなかっただけかも知れなかったが。
 凛ちゃんもすっかり先の会話を忘れて、映画を観ている。 その時はまだ思いもよらなかった。 わたしと凛ちゃんが、こんなに深く付き合うことになろうとは。
 入学式、わたしと凛ちゃんが初めて会った日の夜だった。

 翌日は一人で大学へ行った。子供ではないのだから、毎日圭一さんに付き添ってもらうわけにはいかない。 大学への通学時間は高校の時とほとんど変わりはなかった。高校時代から電車通学だったわたしは、 1時限目に出席する学生が一度に乗り合わせ、息も出来ないほど満員になることを除いては、なんら問題はなかった。 大学の場所も、願書を提出するときと入試の時の二回訪れただけだったが、 周りには同じ学生がひしめいており、それらが皆同じ場所を目指すので、迷うこともなかった。 今日は圭一さんもいない。昨日出会った柳本凛ちゃんに会えればいいなと考えながら、大学への最後の坂を上っていく。 彼女の身長では、これだけの人混みに紛れられては探しようがなさそうで、少し心配だった。
 今日はまだ二日目なので、講義などは始まらない。 大学の制度や単位のこと、施設の利用方法などが説明されるそうだ。 また、学生の身分証明書も今日配布されるそうで、それがあれば学割で定期を買うことができる。
 昨日と同じ教室へ入った。心なしか、昨日より空気が軽い気がした。 早くも見知らぬ人と解け合って、なごやかな雰囲気に包まれている人たちもいた。
 一歩中へ入って、きょろきょろと周りを見渡した。昨日と同じ位置に、一際背の低い姿を見つけた。 周囲のことなど自分にはまったく関係ないかのような気配を醸(かも)しだし、じっと本を読んでいる。 わたしは早足にスロープを駆け上がった。
「おはよ。」
後ろから声をかけると、さほど驚いた様子もなくゆっくり振り向いた。 その視線は昨日も感じた冷たいものだったが、わたしだと認めるとすぐに顔がほころび、「おはよ」と返事をくれた。
「なに読んでるの?」と問いかけながら、わたしは凛ちゃんの隣に座る。 見てみると小説のようで、半分ほど読み終えている。
「『マリービーンズ』。独特な世界観のファンタジー小説。」
「へぇ。そういえば、昨日もファンタジーもの好きだって言ってたよね。」
「小説ならなんでも好きだけど、ファンタジーものが一番好き。」
「あはは。一緒だ。」
その後は担当の教授が来るまで、本について話し合った。 思っていた通りあまり口数は多い方ではないが、それが腹立たしく感じることはなく、 むしろ彼女の雰囲気と合っていて、自然な感じで対話できた。 また、わたしもおしゃべりなほうではないので、 凛ちゃんにとっても煙たい存在には受け取られなかったようだった。
 ガイダンスが始まってからも、わたし達は小声でひそひそとお互いについて話し合っていた。

 今日も大学は午前中だけで、講義は明日から本格的に始まると聞いた。 二日目で凛ちゃんとすっかり打ち解けられたわたしは、その日の午後一緒に昼食に誘ってみた。 凛ちゃんは了承してくれたので、一緒に南側にある食堂へ向かって、坂を下っていく。
「どうしてわざわざ遠い方行くの?」
食堂なら南まで行かなくともあるはずなのに、 あえて遠い方を選択したことに、凛ちゃんは疑問を抱いたらしかった。
「もう一人誘おうと思ってるんだ。嫌だった?」
「ううん、別に。」
わたしがこの大学で見知っている人と言えば、この凛ちゃんと圭一さんだけだ。 圭一さんにはお昼頃迎えに行くからと、朝の時点で伝えておいた。 昨晩凛ちゃんと知り合ったことは簡単に話したが、まさか今日連れて行くとは思っていないだろう。 一方、凛ちゃんにはまだ圭一さんのことは伝えていない。 会うまで秘密にしておいて、二人を驚かせようという魂胆だ。 もっとも、この凛ちゃんがそのくらいのことで動揺するとは到底思えなかったが。
 圭一さんの研究室は校内のメインストリートから一本脇道へ入った先にある。 事前に場所は聞いておいたので、迷うことなく見つけることができた。
 実験棟ということで、中は静かで厳粛な空気が漂っていて、外よりも一層寒い気がした。 二人の足音がこつこつとよく響く。聞いていた部屋は入り口からもっとも奥にあった。
 「圭一さん!」
勢いよくドアを開けて、声を張り上げた。だが、迎えたのは見知らぬ5、6人の学生で、 向こうも何が起きたのかわからず、わたしを凝視して固まってしまった。 凛ちゃんに袖を引っ張られて我に返る。部屋を間違えたのだと思い、 「し、失礼しました」と早口に言ってドアを閉めようとしたとき、 奥の部屋のドアが開いて圭一さんが現れた。
「ああ、やっぱり遥歩か。大声で呼ばれて何事かと思ったよ。」
圭一さんの登場で他の固まっていた学生も我に返る。 一人が「先生の知り合い?」と問いかけていた。 圭一さんは「ああ」と相づちをうちながらこちらへ向かってきた。 それを皮切りに、他の学生も「先生の彼女?」「いやー、ショックーッ」などと笑いながらはやし立てる。 それらをなだめながら、わたし達二人を廊下へ連れ出した。
「この子が昨日言ってた柳本さん?」
笑いものになって赤面するわたしに、気にした様子もなく圭一さんは訊いてくる。
「うん。柳本凛ちゃん。こっちの人は、わたしの世話をしてくれてる、河上圭一さん。 生命工学科の助教授なんだよ。」
わたしは凛ちゃんと圭一さんにお互いを紹介する。
「はじめまして。河上圭一だ。遥歩の世話をしてくれてるみたいだね。 学科が違うから講義を受け持つことはないと思うけど、よろしく。」
圭一さんは一際背の低い凛ちゃんのために、少し前屈みになりながら手を差し出す。 凛ちゃんはその手の平を見たあと、圭一さんの顔を一瞥した。 その視線はわたしと接するときとも、わたしと初めて会ったときとも違う、まだ知らないものだったが、 圭一さんはもちろん、わたしもそのことには気づかなかった。
「よろしく。」
凛ちゃんは小さな手を挙げて握手をした。 圭一さんは満足げに一呼吸し、「それで、飯に行くんだろ?待ってたら腹減っちゃったよ」と促した。 わたしは先ほどの恥じらいも忘れて、「うん」と陽気に応えて、圭一さんの手を取った。 そのまま出口へ向かう姿を、凛ちゃんは一人、冷たい微笑を浮かべながらじっと眺めていた。
「ふふ。こんなに簡単にいくなんて。」
「凛ちゃん、なにしてるの。早くいこ」とのわたしの声でいつもの表情に戻って、 凛ちゃんはゆっくりと歩き出した。



2.

 夜、部屋の電気も消した真っ暗な中で、凛ちゃんはじっとノートパソコンの画面を眺めている。 液晶から発せられる青白い光が顔に影を作り、それが凛ちゃんの素顔を映し出す。 体は動かさず、指と目だけを動かして、一般人には決して公開されることのない極秘の犯罪者リストから、 ただ一つの顔を探し出していた。
 スクロールさせていた指の動きが止まった。画面には一人の顔写真が表示されている。 それはあの日、わたしを尾行してきた女、レベッカに間違いなかった。 詳細を開き、必要な項目を紙へ書き写し始めた。
「遥歩……」
ペンを走らせながら、わたしのことが頭に浮かぶ。 凛ちゃんの中のわたしは、いつも優しい笑みを浮かべて、凛ちゃんを見つめていた。
「遥歩には、絶対に手を出させない。」
ペンを握る指に、ぐっと力が込められた。

 「ちょっと、遥歩。聞いてるの?」
ぴしゃりとした声で美里ちゃんに言われ、わたしははっと我に返った。
 昼休み、冷たい風の吹く中で、わたしと美里ちゃんは相も変わらず芝生の上で食後のひとときを過ごしている。 もう本格的な寒さが近づいており、外で食事が摂れるのは今年はもうあと何回もないだろう。 わたし達の他にこうして外で食事をしたり集まったりしているグループは、今はもうほとんど見られない。
「ごめん、何?」と、わたしは気を取り直して、美里ちゃんに問い返した。
「だから、金曜ひま?あたしの友達がサークルに入ってるんだけど、 その仲間と、知り合いの男どもで合コンやるんだって誘いが来てさ。 誰でも連れてきていいよって言われてるんだけど、ゆかりを連れていくのも癪だしさ。 それで遥歩はどうかなーって思ったんだけど。」
「合コンか。あんまり気が進まないなぁ。わたし、そういう場苦手だし。」
「大丈夫よ、あたしが一緒じゃない。それとも、なに、 やっぱりセンセに決めちゃったわけ?」
からかうような目でわたしを見てくる。先ほどまで思い返していた昨日のことが、また頭をよぎった。
 わたしの心を捕らえて止まない優しい瞳、そしてあの暖かい体でぎゅっと抱きしめられた時のぬくもり。 思い返すと鼓動が早くなり、体が火照ってくる。
「別に、そういうわけじゃ……。」
「じゃあ行こうよ〜。もしかしたらもっと素敵な人が見つかるかもよ。ねぇ遥歩ちゃ〜ん。」
甘える子供のような声をだして、わたしの腕をとってゆさゆさと揺さぶってくる。 美里ちゃんが願い事を押し通したいときに使う、いつものぶりっこ作戦だ。 わたし自身はなんの興味もわかなかったが、執拗に誘う美里ちゃんを相手に断ることができず、しぶしぶ頷いた。
「やったぁ」と言って、美里ちゃんはわたしに抱きついてきた。 ほのかに香るシャンプーと香水の匂いが鼻をついた。
「さっすが遥歩。話が分かる。それじゃあ、今度の金曜、夜7時に北門前に集合ね。」
「合コンって、大学でやるの?」
「ううん、ファミレスの予定。けど、遥歩一人じゃ行きにくいでしょ?一緒に行こうよ。」
美里ちゃんも美里ちゃんなりに、気を遣ってくれているようだった。 わたしは素直に「うん」と頷いた。
 じきに始業の鐘がなり、美里ちゃんは講義があったので、その場で別れた。 本来鐘がなってから教室へ向かったのでは当然遅刻になるが、美里ちゃんは意に介した様子もなかった。 わたしは空き時間だったので、しばらくはそのまま日向で、ぽかぽかと暖かい陽を浴びていた。
 また昨夜の圭一のことを思い出す。 近頃は、何かあるとすぐに圭一さんのことを考えるようになってしまってきていた。
 昨日は、近いうちになにかあるかも知れないと言っていた。 なにかとはなんだろう。やはり、アイバーやレベッカが関わってきているのだろうか。 わたしにしてみれば二度も命を狙われたわけだ。今からでも遅くはない。警察に連絡した方が良いかもしれない。 してどうにかなるものではないかもしれないが、マンションの回りを警官が巡回していれば 彼らもそう簡単には手を出してこないだろうし、圭一さんもわたしの安否を心配せずにすむだろう。 ただ、突然黒服の外国人が銃を突きつけてきたなどと言って、信用してくれるとも限らない。
 もう一つ気がかりなのは、凛ちゃんだ。わたしと同じで滅多に休まない凛ちゃんが、今日は休んでいる。 一昨日の土曜日、わたしはレベッカに尾けられ、凛ちゃんと共になんとか追い払った。 そのあと、圭一さんが帰ってくるまで一緒に家にいた。圭一さんが帰ってくると、とっとと帰ってしまった。 もしかしたら、帰る途中になにか事件にでも巻き込まれたのだろうか。 いや、もしそうだとしたら、とっくに凛ちゃんのお母さんから連絡が入っているはずだ。 過保護の凛ちゃんのお母さんは、前にもわたしの家で遅くまで遊んでいたとき、電話してきたことがある。 よって、連絡がないことから、この線は考えられない。
 では、単なる風邪だろうか。今まで凛ちゃんといても、風邪を引いたところなど見たことがない。 確証はないが、それが原因ではないだろう。
 考えているうちにばかばかしく思えてきた。凛ちゃんだって、たまには休むだろう。 今までだって、わたしに何も言わずに無断で休んだことはある。心配することはない。 そうは思っても、心のどこかで不安が募っていた。何事もなければいいのだが。 今回の事件はわたしと圭一さんの問題だ。凛ちゃんは関係ない。
 わたしは立ち上がって、両手でお尻をぱんぱんとはたき、荷物を持って歩き出した。 次の講義の時間まで、教室で本を読んでいよう。もしかしたら、凛ちゃんがひょっこり現れるかも知れない。 ふと、凛ちゃんと出会った時のことを思い出した。回りは知らない人ばかり、お互いがお互いに孤立した中で、 わたしは凛ちゃんと知り合った。 わたし達は共に本が好きで、ファンタジーの世界が好きで、そしてお互いが好きだった。

 同日、圭一さんは珍しく遅くまで残業していた。 研究室に白い蛍光灯の光が灯るほかは、すでに闇に支配されている。 夏場ならまだ残っている学生も多く、活気に満ちているのだが、 冬場ともなればすっかり人影は失せ、所々に外灯がぼんやりと浮かぶだけで、ひっそりと静まりかえっている。 圭一さんは大学に備え付けのパソコンの電源を落とし、椅子にふんぞり返って思い切り伸びをした。 腕や腰がぱきぱきと音を立てる。ふうっと大きく息をつくと、鍵束を手に準備室へと向かった。
 準備室の扉を開け、中から明かりを点ける。一歩足を踏み入れると、嗅ぎ慣れた薬品の匂いが漂ってくる。 圭一さんは窓際へ歩み寄った。配布したプリントの残りやら実験のレポートやらが乱雑に広げられる中、 一際不自然なくらいに、その花は静かに咲いていた。葉も花も透き通った、家にあるあの鉢植えと同一の植物。 その花の存在を確認すると、圭一さんはレポートの束を掴んで、部屋を後にしようとした。
「お兄ちゃん。」
突然声が聞こえた気がして、圭一さんは慌てて驚いて冬幻想花を見やった。 花は一瞬先と同じように静かに咲いている。 空耳と分かっていても、しばらく微動だにせず、花を見つめ続けていた。 やがて目をそらすと部屋を出、明かりを消してドアにしっかりと鍵をかけた。 そしてレポートの束をバッグに詰め、研究室を出て鍵をかける。 最後に部屋の明かりを消すと、誰もいない廊下にわずかに蛍光灯が光るだけとなった。 圭一さんは早足で校舎の出口へと向かった。
 駐車場へ入ると、人の話し声が聞こえた。一瞬足を止めたが、そのまま自分の車に近づく。 車の前で話し込んでいた二人も、圭一さんの存在に気がついた。
「よう、お仕事ご苦労さん。」
からかうように言ったのは大男の方。迷うことなく、それはアイバーだと分かった。 隣にいるのはすらりとした長身の女性だった。 圭一さんは先日わたしから聞いた話を思い出し、その女性がレベッカであると判断した。 二人ともいつものように上下共に黒いスーツを着ていて、辺りの闇に溶け込んでいた。
「お前はあの時の。待ち伏せして、一体なんのようだ。」
圭一さんは声を強めていった。
「何のようだだと?分かっているくせに。」
アイバーは一歩圭一さんに近づいて言った。
「この間はお前の姫君にいっぱいやられたようだな。 レベッカから振り切るとは大した姫君だよ。だが今度はそうはいかない。 お前が『レガシー』の技術文書を渡さないと、無関係な姫様が痛い目に遭うことになるぞ。」
圭一さんは女性の方をみやって、「あんたがレベッカか」と問いかけた。
喋る代わりに、レベッカは一つ頷いただけだった。
「遥歩から話は聞いている。こいつの言うとおり、無関係な遥歩に危害を加えようとしたことに、 俺は心底怒っている。だが、俺は武器の持ち合わせもないし、 素手で争ったところで到底こいつには勝てそうにない。」
そこまでいうと、圭一さんは再びアイバーに視線を向けた。
「今回のいざこざは、あんた達が『レガシー』の技術文書を手に入れるか、 あんた達を追っ払うかしなければ終わらない。そうだな?」
「まあ後者もありえないだろうがな」とアイバー。
圭一さんは少し考えてから言った。
「分かったよ。技術文書をあんた達に渡す。俺にはもう必要ないものだ。」
アイバーは意外そうな顔で、「ほう」と驚いて見せた。
「ただし、条件がある。今後一切、俺たちの前に現れるな。 それと、俺があんた達に技術文書を渡したことも、口外無用だ。」
「良いだろう。技術文書さえ手に入れば、お前らなどに用はない。」
「あんたもそれで良いんだな、レベッカさん。」
レベッカは一言「ええ」とは言ったが、その顔には明らかに全てを納得した表情は浮かんでいなかった。
「じゃあ、交渉成立だな。で、ブツはどこにあるんだ?」
「まあ待て。そのことだが、引き渡しは3日後にしてもらう。」
「なぜだ?」
「俺にも色々と事情があるんだ。簡単には取り出せない場所に保管してあるし。 それが嫌なら交渉は決裂にするが。」
圭一さんは挑戦的な口調でアイバーに言った。これにはアイバーも怒りを覚えたようだったが、 せっかく手に入るチャンスを逃してはいけないと自制し、「まあ良いだろう」と許諾した。
「次に場所だが、この道を西へ走っていくと、10分ほどで大学入り口という交差点が見えてくる。 そこを左折してずっと走らせていると、小さな墓地に突き当たる。 引き渡しはそこで行う。人通りも少ないし、目撃される可能性も低いだろう。 時間は、俺の講義が終わったあとだから、19時前後にする。いいな?」
圭一さんは大学を出てすぐの大通りを指さしながら言った。
「お前、何か企んでるな?」
アイバーは目敏そうな目つきで言った。 圭一さんは一瞬どきっとしたが、顔には出さず、平静に「別になにも」と応えた。
「まあお前が何を考えていようと関係ない。言うとおりにしよう。 3日後の19時に、その墓地にいけばいいんだな?」
圭一さんは一つ頷く。
「研究施設のほうは提供してくれないのか?」
「そんなもの、技術文書と金があればすぐに用意できる。」
アイバーはにやりと笑って手を差し出してきた。圭一さんはちらっと見やったが無視して、車のキーを取り出した。
「いいな、遥歩には手を出すなよ。何かあったら、技術文書を焼き捨てるからな。」
言いながらアイバーの横をすり抜け、車のドアを開けて運転席に滑り込む。レベッカが横目でその様子を見ていた。
 車のエンジンをかける。静かだった駐車場にまばゆいライトが射し、エンジン音が響き渡る。
 圭一さんはそのまま車を発進させた。ルームミラーでちらりと後方を確認すると、二人はまだ同じ位置に立っていた。 圭一さんは背中にびっしょりと汗をかいていた。そして、これからのことを考えた。 3日間。3日間のうちに、全てを済まさなければならない。 時々ルームミラーで背後を確認しながら、すべきことを頭の中で整理し、夜の県道を疾走した。
 走り去る車を見ながら、アイバーは言った。
「それにしても、そんなにその小娘が気になるのか?」
「たかだか大学へ行くだけなのに、煙幕を携帯してるのよ。普通じゃないわ。」とレベッカ。
「それに、一挙一動見ても、あまりにも不自然だった。いや、あの状況下では自然すぎた。 ただの女子大生じゃない。帰ったら詳しく調べてみるわ。」
「そうか。まあそっちは好きにやりな。俺は3日間観光でもするかな。 ブツが手には入ったらまたアメリカだからな。」
「あの男も、甘く見ない方がよさそうよ。 簡単に渡してくるなんて、話がうますぎる。」
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ?」と、アイバーは声高らかに笑った。
「いずれにせよ、関係者は全員死んでもらうつもりだからな。小娘含めてな。」
透き通るようなブルーの瞳は、今は月の光に照らされ、ぎらぎらと不気味に闇夜に浮かんでいた。

3.

 朝日が瞼に射し、目を覚ました。 窓に背を向け、寝ぼけまなこをこしこしとこする。 ふかふかのベッド。暖かい布団。わたしに抱かれて苦しそうなぬいぐるみ。陽の光。空気。朝。 当然のようにそこにある。わたしは体を起こした。
 わたしが再び日の目を見るようになってからどれくらい経っただろう。 随分と長い夢を見ていたようだった。いや、それは夢だったのだろうか。 今いるこの世界こそ、夢の中なのではないか。わたしには確認するすべはない。
 あの日、無機質で殺風景なあの部屋でわたしは目覚めた。 そのあと、わたしはお姉さんに連れてこられて、今は一緒に住んでいる。 お父さんとお母さんには、訳あって会わせられないという。 お父さんとお母さんには会いたいはずだが、もう顔も思い出すことができない。 そして今晩には、寒い北国へ引っ越しをしなければならないらしい。 すぐに帰ってこれるようなので、荷物はほとんど残していくと言っていた。 引っ越すとさらにお父さんとお母さんから離れてしまうのではないだろうか。 もしかしたら、そこにお父さんもお母さんもいるのかも知れない。 お姉さんが帰ってきたら聞いてみよう。わたしはベッドから這い出た。
 居間へ入る。かすかにコーヒーの匂いが香っていた。 わたしはコーヒーが苦手だ。苦いし、夜飲むと眠れなくなる。 コーヒーは大人の飲み物らしいが、大人になっても飲みたいとは思わない。
 テーブルの椅子を引き、背もたれを掴んでよじ登る。 背が小さいので、椅子に腰掛けても頭しか見えない状態だ。 テーブルの上にはメモが残されていた。わたしにも読めるよう、全てひらがなで書かれている。
『ありすへ。おひるにはいちどかえってきます。あさごはんはぱんとたまごやき、 れいぞうこにはさらだがあるので、それをたべてください。 くすりも、わすれずにのんでください。』
お姉さんは仕事で、わたしが起きる頃はいつも出かけたあとだった。 お昼に一度帰ってくることもあれば、夜になるまで帰ってこない日もある。 わたしはまだ外に出てはいけないと言われているので、 一人で本を読んだり、テレビを観たり−−ほとんどの番組は理解できないが−−、 窓から外を眺めてたりして過ごす。 今までの家には広くはないが、はしゃいで遊べるほどの庭があり、花壇もあったが、 お姉さんの家はマンションという家で、庭はないそうだ。 いつも何人かの友達と庭で遊んだり、時には公園、友達の家などでも遊んだ覚えがある。 ただ、その記憶だけで、誰と遊んだか、名前も顔も思い出せない。 長い眠りの中で、多くの記憶は頭の奥深くへ沈んでしまったようだ。
 薬も毎日飲んでいる。栄養剤らしく、ずっと眠ったままで弱っている体を早く回復させるためらしい。 栄養剤は甘めのシロップなので、わたしには飲みやすくてよい。 錠剤や粉末なら、飲んだふりをしてトイレにでも捨ててしまうところだ。
 朝ご飯を終えると、わたしはただ遊ぶだけで、やることは特にない。 今日はお姉さんの部屋を色々と探索することにした。 本当は他人の部屋を勝手に物色するのは良くないことだが、 買って貰った本も全て読んでしまったし、テレビを点けてもつまらないので、 いつもとは変わったことがしたいと思ったからだ。 わたしはお姉さんに買って貰ったぬいぐるみを片手に、お姉さんの部屋へと入った。
 お姉さんの部屋は整然としていて、綺麗だった。わずかに花の香りがする。 香水というものらしい。嗅いだことのある匂いだが、何の花かは解らない。 壁には本棚がならび、部屋の大部分を埋めてしまっている。 わたしの読めそうな絵本などは置いていないようだ。 大概は分厚く難しそうな本や、外国語で書かれているものもある。 合間には絵画が掛けられている。 変な形、変な色遣い、何が描いてあるのかさっぱり解らない代物だった。 机の上にはパソコンという機械が置いてある。 お父さんもお母さんもしょっちゅうパソコンを使っていたが、わたしには触らせてくれなかった。
 ふと机の脇をみると、写真のようなものが立てかけてある。 よく見てみようと持っていたぬいぐるみを床に置き、椅子によじ登ってから手にしてみる。 お姉さんが写っているのかと思っていたが、写っていたのはわたしとお兄ちゃん……
 雷が頭に落ちたような衝撃を受けた。写っているのは間違いなくわたし。 無垢の笑顔を浮かべて、こちらを見ている。そしてお兄ちゃん…… どうして今まで思い出せなかったのか。お兄ちゃんはどこにいるのだろう。 逢いたい。お父さんやお母さんよりも、お兄ちゃんに逢いたい。 こみ上げてくる激情をこらえきれず、ぽたぽたと涙が机に落ちる。 お兄ちゃんという存在がわたしのなんだったのか、それすら思い出せなかったが、 わたしはお兄ちゃんに逢わなければならない、そう感じた。 お兄ちゃん……お兄ちゃん……わたしは……アリスじゃない……。

4.

 大学には食堂が3箇所ある。いずれもかなりの大きさで一フロア約200人収容でき、それがいずれも二フロアずつ用意されている。 だが、合わせて1200人収容できる程度では、約2万人が通うこの大学の昼時を賄うことは不可能だった。 しかし、それ以外の時間ともなれば、まるで別の場所であるかと錯覚するくらい殺風景になる。 2時限目が始まって、もう10分くらい経つころだろうか。辺りには友人とおしゃべりをしたり、 せっせとレポートを作成する学生が数人、まばらにいるだけである。 そのような状況なので、わたしと今野先生が二人きりで向かい合っている光景は、周りから目線を集めるはずである。
 昨夜、圭一さんが帰ってくる前に、今野先生から電話があった。わたしと一対一で、電話越しではなく、 直に会って話がしたいという内容だった。特に断る理由もなかったため、わたしは了承し、 お互い時間の空いた今日の2時限目に食堂に集合することにしたのだった。だが、受話器を戻して部屋に戻り、 よくよく考えてみたが、今野先生がわたしと話し合う理由は皆目見当がつかなかった。 可能性があるのは圭一さんのことだったが、それだって急に二人きりで会って話すほど重要なことではないはずだ。 圭一さんにとって、今野先生はただの友人だ。圭一さんはそう言っている。 だが、今野先生は……普段の今野先生を見ていても、圭一さんに気があるようには思えない。 それに、あの容姿だ。今だって恋人くらいいてもおかしくない。圭一さんをそこまで執拗に追いかける理由はないはずだ。
 では、なぜ一緒にいるのだろう。男女の関係という以外に、二人にはなにか関係があるのだろうか。 そして、それはわたしも関係することなのだろうか。やはり見当がつかない。
 先に着いていたのは今野先生のほうだった。今野先生は相変わらず綺麗だった。 小さな顔に光る燃えるような赤いルージュ、優しげだが、どこか鋭いまなざし、光を受けて輝くブロンドのショートヘア。 美しい容姿、人当たりの良い性格、高い学歴と、それを組み上げてきた秀才な頭脳。 わたしには無いものを、なんでも持っているような気がした。
 わたしに気づいた今野先生は優しくはにかみ、軽く頭を下げた。その表情とくれば、 女のわたしから見ても緊張してしまうほどの一品だった。 こんな顔で迫られたら、どんな男もたちまち虜になってしまうだろう。
「ごめんなさいね、突然呼び出したりして。」
「いえ、別に」とつっけんどんにいって、わたしは椅子へ腰掛けた。
「何でも好きな物言って頂戴。わざわざ来て貰ったんだから、そのくらいは奢るわ。」
その言い方は、招いた客をもてなすためのものではなく、単に子供に好きなものを買ってあげるというような感じを受け、 わたしはむっときて「結構です」と突き放すように言った。 今野先生もいささかたじろいで「ごめんなさい」と謝った。わたしが今野先生を快く思っていないのは、 恐らく彼女も承知のことだろう。だが、それは圭一さんが理由であるところまでは分かってはいないはずだ。
 会って早々わたしが嫌悪を表したため、しばらくの間は二人を沈黙が包んだ。 わたしとくれば荷物を隣の椅子にのせ、両手を膝の上に合わせてじっとテーブルを見つめている。 今野先生は間が悪そうに、わたしとテーブルを交互に見やっていた。
 やがて今野先生が口を開いた。
「最近、変わったことはない?」
変わったこと、とは心境の変化でのことではないだろう。変わったことならしょっちゅうだ。 わたしの中でもまだ整理がつかず、色々な断片として頭の隅に置かれている。 しかし、あえてこの相手にそのことを話す必要はないと思ったので、わたしは「別に」と意とは反する答えを言った。 だが、次の一言で、わたしは呆気にとられてしまった。
「ごめんなさい、ほとんど分かっているつもりなの。あなたを襲おうとした男のことも、 柳本さんと一緒にいたときに会った女のことも。河上先生から聞いているわ。」
圭一さんから聞いている?なぜ圭一さんはこの人にそんなことを話したのだろう。 ぽかんとしたわたしを、今野先生は真剣なまなざしで見つめ、続けた。
「私が知りたいのはそのことではないの。遥歩ちゃん、河上先生から何か聞いていない?」
「何かって、何をですか?」
「例えば、彼の昔のこととか。あなたのご両親のこととか。」
言われて思い出した。圭一さんとわたしの両親は知り合いだったのだ。 お父さんとお母さんが研究所で働き、圭一さんはその助手をしていたと、初めて会ったときに聞いていた。 だが、当時も大学で助教授をしていたことは確かだ。会って翌日から、 講義があると言ってわたし一人を部屋に残して大学へ赴いていった記憶がある。 どういうことだろう。助手をしていたというのは嘘なのだろうか。それとも、 助手もしながら大学で講義もしていたのだろうか。
「わたしの両親と圭一さんが知り合いだって、どうして知っているんですか?」
「それは、当然と言えば当然よ。私も遥歩ちゃんのご両親、水奈月博士の助手をしていたのだから。」
「えっ」と声を漏らす。今野先生とお父さん達が知り合い?初耳だった。 圭一さんからも今野先生からも、もちろんお父さん達からも聞いてはいない。
「河上先生もよく言ってるわ。遥歩ちゃんは小さい頃の遥歩ちゃんと、ちっとも変わってないって。」
わたしはまた驚いて聞き返した。
「圭一さん、小さい頃のわたしを知ってるの?」
だが、「ええ、それは」と言いかけて、今野先生ははっとした表情になり、慌てて手で口元を押さえた。 みるみる血の気が引いていくように思え、わたしは妙だと思った。
「どうなんですか?知ってるんですか?教えて下さい。」
気になったので、直接言って貰おうと先を促した。
「……ごめんなさい、今のは忘れて。」
今野先生は焦ったような、戸惑ったような顔をし、わたしから視線を外した。
「どうしてですか?何で教えてくれないですか。」
わたしはなおも食いついたが、今野先生の口から真実を聞き出すことはできず、首を横に振るだけだった。 わたしはまたのけ者にされたような感じになり、憤りを覚えた。
「いずれ、河上先生から直接聞けると思うわ。……急なんだけど、 実は明日から東北の高校へ臨時教員としていかなければならないの。 私は高校の教員免許も持っていて、知り合いの校長先生から頼まれたのよ。 その前にどうしても、遥歩ちゃんと話をしておきたかった。 もしこれから何かあったら、遠慮無く私に連絡してきて頂戴。電話番号と住所は渡しておくわ。」
そういうと、今野先生はバッグから一枚の小さく折りたたまれた紙を出し、テーブルの上に乗せた。 全てを分かり切っている。自分のことも、他人のことも、圭一さんのことも、わたしのことも。 そんな口調に、わたしは我慢ならなくなり、立ち上がった。
「あなたがどこへ行こうと、わたしには関係ありません。 話すことだって何もありません。 これ以上、わたしと圭一さんに関わらないでください。」
差し出された紙切れを無視し、わたしはバッグをひっつかみ、さっさとその場を離れようとした。
「待って、遥歩ちゃん。」
「気安く遥歩ちゃんなんて呼ばないでください!」
怒りをあらわにした顔つきで、わたしは言い放った。 静かで穏やかだった食堂に突如険悪なものが漂って、 他の数人の学生がわたしのほうを見やった。 そのままくるりと踵を返し、早足に食堂の出口へ向かう。 残された今野先生はしばらくじっと紙切れを見つめていたが、やがてそれを元通りバッグへしまい、 ゆっくりと立ち上がって食堂を後にした。

 もやもやした気持ちのままがらんとした教室で頬杖をついて、道行く学生達を窓越しに眺めていた。 なぜあんなことを言ってしまったのだろう。なぜあんなに激昂したのだろう。 確かに、今野先生はあまり好きではなかった。けど、憎んでいるわけでもない。 わたしは子供なのだ。ただ嫉妬心から、無意味な感情を露呈し、 その結果、こうして居たたまれない気持ちに落ちてしまう。 はあっと、一つため息をつく。本当に子供だ。みっともない。 今度、機会があったら、ちゃんと謝ろう。 そうして少しずつ大人になっていけばいい。
 そう言えば、圭一さんはわたしの幼少時代を知っているようなことを口走っていた。 何かが心にひっかかる。なんだろう。わたしは子供の頃に、圭一さんに会っているとでもいうのだろうか。 子供の頃、5歳未満の空白の時間、当時わたしの隣にいた……
 突然頭が割れるような痛みに襲われ、思考が停止する。 痛みはすぐに引いたが、しばらく額に手を添え、じっと俯いていた。 何も考えなければ、痛みは襲ってこなかった。
 後ろから聞き慣れた声がした。振り向くと凛ちゃんが立っていた。 3日間会っていないだけだったが、随分と久しぶりに見たような気がした。 だが、本人はいつもと変わらずマイペースそうで、何事もなかったのだと安心した。
「頭、痛いの?」
わたしがおでこを押さえていたものだから、凛ちゃんは心配そうに訊いてきた。 余計な迷惑をかけないよう、「何でもない」と明るく振る舞う。 凛ちゃんも安心したようで、にこりと笑って隣に腰を下ろした。

 大学の帰り、わたしはいつもの駅で電車を降り、凛ちゃんと別れた。 わたしが「またね」と片手をあげると、凛ちゃんはそれに軽く手を振って応えた。
 ドアがしまり、ゆっくりと電車が動き出す。凛ちゃんはドアの窓からホームの階段へと消えゆくわたしを眺めていた。 一人になった。先ほどまでの穏やかな表情は消え、引き締まった顔つきになる。 電車はホームから完全に出た。凛ちゃんは顔を上げた。 4時限目が終わって帰路につく頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。 その中、一際大きな建物の影が、夜に染みこむようにひっそりと佇んでいる。 わたしのマンションだ。所々に明かりが点き、それがかろうじて廃墟でないことを思い出させてくれる。 電車から見る街は暗すぎた。大神災から数年が経ち、街も徐々に復旧しつつあるが、 まだいくらかの土地は当時のまま、倒壊あるいは撤去され、空き地と化していた。 道路や歩道に入った亀裂も全てが全て復旧されたわけではなく、 人通りの乏しい裏路地などは未だに大きくひび割れている箇所もあった。
 大神災によって多くの人の運命が、一晩にしてがらりと変わってしまった。 わたしもその一人だった。だがそれによって悪い方に進み始めたとは思っていない。 確かに、わたしは一瞬で両親を失った。けど、周りにもわたしと同じように多くのものを失った人が大勢いた。 そんな中で、わたしは圭一さんに出会った。あの事件が良いことであるなどとは言えないが、 不幸以外にも何かもたらしたことは確かだった。
 やがて電車の速度が徐々に落ち始め、駅へ到着するアナウンスが流れた。 ホーム内に進入してもちらちらとしか人影はなかった。 この時間帯は、上り電車の乗客のほとんどが帰路につく学生だった。
 ドアが開き、わずかながらに降りる乗客に紛れて、凛ちゃんもあとから続いた。 定期を改札口に通すと、そのまま出口へは向かわず、一度トイレへ向かう。 中には人の気配はせず、白い部屋が白い光に照らされ、静寂に包まれていた。 凛ちゃんは個室へは入らず、出入り口に神経を集中させる。 誰もいないと分かると、バッグの底の方から拳銃を取り出す。 平和な空間にそぐわぬ、白紙の上に溢れたインクのような、真っ黒なボディである。 凛ちゃんはさも気にした様子もなく、平然とマガジンを引き出す。 中には4発の実弾が込められていた。 それらを確認すると再びマガジンを戻し、安全装置を取り除いた。 これでいつでも引き金を引けば、有無を言わさず鉄の塊が先端から飛び出すことになる。 凛ちゃんは拳銃をバッグの内ポケットへ入れると、もう一度入り口を確認し、 誰もいないことを確認すると大きな鏡のついた洗面台で手を洗って、トイレを出た。
 凛ちゃんは一人でいるとき、どんなことを考えているのか、わたしには想像がつかない。 いつもながらの無表情で、やや早足に自宅への道を歩む。
 脇道へ入ると店の明かりも届かず、街灯だけがわずかに闇を照らすだけで、暗く、静かだった。 凛ちゃんは一度も振り返ることなく、自宅へと辿りついた。門の前へ立ち止まり、中を覗く。 玄関の窓からは薄明かりが溢れている。恐らくお母さんはキッチンで夕食をこしらえながら、愛娘の帰りを待っている。 凛ちゃんは中へは入らず、後ろを振り返って言った。
「そろそろ出てきたらどう?」
少し間があって、道の曲がり角から女性が姿を現した。凛ちゃんも見知っている、あのレベッカだった。
「さすがね。いつから気づいてたの?私が尾けてたってこと。」
レベッカはゆっくりと凛ちゃんに近づく。凛ちゃんも正面から向かえ、鋭い視線でにらみ返した。
「大学の駅で電車を待ってるあたりから。」
「その割には、あの娘とはすんなり別れたのね。 この間みたいに二人で待ち伏せればよかったのに。」
「あの時は正体がつかめなかったから。 今日は相手があなただと分かっていたし、それに狙いも遥歩じゃなさそうだった。 視線は常に凛に向けられていた。」
「あら、ご明察。あなたやはりただものじゃないようね。」
レベッカは凛ちゃんから5メートルほど離れたところで立ち止まった。 それ以上は二人の殺気がぶつかり合って、中に入れないような状態だったに違いない。 二人の顔は街灯によってぼんやりと、だが確実に闇に浮き出されていた。
「あなたのこともよく調べた。レベッカ=R=ブラウン。テキサス州テイラー出身、33才。 生まれてすぐに母親を亡くし、10才の誕生日目前で父親を亡くす。 その後、遊び人だった父親が裏のつながりで通じていたマフィアに引き取られ、ダラスへ。 その美貌から詐欺師として育てられ、16才からは銃戦術も学ぶ。 25才の時にマフィアの頭首が逮捕され、芋づるしきに他のメンバーも逮捕。 ただ、あなたのように警察の手を逃れ、他のマフィアに入ったものもいる。 現在はニュージャージー州サンディエゴで、 秘密組織通称『プレーン』で諜報部として、アイバーと共に世界中を動き回っている。」
「まあ驚いた」と、レベッカはおどけて見せた。
「州警察だって私の素性をそこまで知りはしないのに、よくもそこまで調べたものね。 けど、当然といえば当然かしら。」
レベッカは胸の内ポケットから拳銃を取り出した。銃口は真っ直ぐ、凛ちゃんの額を射抜く。 凛ちゃんは銃口を一瞥すると、再び視線をレベッカに戻した。
「もと警視総監、柳本清次の一人娘、柳本凛。お父様は今は総監を引退して、アメリカへ渡ってるんですってね。 そしてFBI情報本部で自分にとって第二の仕事を勤めている、立派なかた。 そんなお父様がいるのだもの。私たちのことなんてあなたには筒抜けよね。そして凛ちゃん、あなたも。」
レベッカは目を細め、拳銃のハンマーを引く。
「あなたのことだから、なぜ私たちが日本に来て、河上圭一へ接触したかも知っているんでしょう?」
「人体複製実験『レガシー』の技術を収集しに。」
凛ちゃんは顔色一つ変えず、淡々と質問に応えた。
「そう。水奈月遥歩を人質にとって楽々取引をするはずだったのに、 あなたが出てきてくれたおかげでとんだ手間を食ったわ。」
「あなた達にとっては邪魔者だったかもしれないけど、凛にとっては好都合だった。 お父さんの追っていたエージェントと偶然にも接触できたんだから。」
凛ちゃんはレベッカににやりと笑いかけた。それは大男に突き飛ばされたかのような衝撃だった。 レベッカは後ろによろめきそうになるのを必死にこらえた。 だが、その一瞬の間に凛ちゃんは横へ飛び、バッグから素早く拳銃を取り出した。 それに気づいたレベッカもすかさず引き金を引いた。ほとんど同時に銃声が辺りに響く。 レベッカの放った銃弾は凛ちゃんの肩をかすっただけだったが、 凛ちゃんのほうは正確にレベッカの拳銃を射止め、手から放り出されて宙を舞ってから地面へと落下した。
 慌てて後方へ銃を拾おうとするレベッカの足下めがけて、もう一発発砲する。 レベッカはびくりとおののき、そのまま両手をあげた。背中では凛ちゃんが無防備な背中へ銃口を向けている。
「あなた達が河上圭一からレガシーの物的証拠を押収してからこうするつもりだったけど、 不用意にも一人で凛の前に現れてしまったから、予定とは狂っちゃった。」
レベッカは恐る恐る凛ちゃんを振り返った。その瞳は、もはや恐怖一色に染められていた。
「あなた、一体何者なの?一体何を企んでいるの?」
凛ちゃんは静かな笑みを浮かべながら、バッグから手錠を一つ、取り出した。

第五話

第七話